雑草わんだほー

That's so wonderful♪

理想的なゲームの読み手

となりの関くん』2巻を読みました。どういうお話かと言いますと、学校の授業中に関くんが



のような高度な一人遊びに興じているのに対し、隣席の横井さんが心の中でツッコミを入れる。――そんな構図がひたすら繰りかえされるマンガなのですが、これが実に面白い。空想癖のある人間としては、リミテッドな環境下であろうと想像力というものはこんなにも自由に発揮することができるんだと、もっと日々の隙間に空想の研鑽を積んでいかなければと、畏敬の念を抱かざるをえません。いや本気でっ。


さて、このマンガの面白さというのは。関くんの独創的な一人遊びはさることながら、そこにロマンチックなストーリーを重ねていく横井さんの読みに支えられているところが大きいのですよね。創作を志す身としては、これは本当に理想的な関係だなぁと思います。
作り手というのは、想定した文脈に誘導するため色々と演出を加えていくわけですが、それを適切に読みとってくれる存在がいるということがどれほど心強いか。そして横井さんはそれだけに留まらず、遊びごとに変わる独自ルールに則って、ときどき協力したり反撃を試みたりもしてくれるわけです。つまり作品の芯をきっちり踏まえた上で、作り手が思いも寄らなかった反応をしてくれる読み手ということで、これはもう羨ましくて悶えるしかないわけで……!
さらに2巻に入ると、そんな関くんと横井さんの絆を分かりやすく誤読する新キャラが現れてきたりして、この先どこまで静かながらに熱い視線の網が広がっていくのか楽しみであります。


ところで、こういう関係性の構図を意識すると個人的には、『うみねこのなく頃に』のベアトリーチェと戦人を思いださずにはいられません。
あれは相当に捻れていますが、ひどく意地の悪い謎に挑んでみせろと煽るゲームマスターに幾度なく騙されながらも立ちあがりつづける主人公、というのはやはり理想的なプレイヤー像なのですよね。おそらくは、『ひぐらしのなく頃に』で沢山のファンを獲得しながらもその期待をコントロールしそこねた、竜騎士07さんの。
……とここまで書いてみて、自分自身にも思い当たることがあり以下略なのですが。えーと、その、いずれ私も理想的な何かを築けたらなぁと思うこの日頃です。

伏線とアイディアの糸

ほぼ日の糸井重里さんと任天堂岩田聡さんの、2007年に行われた対談を読みなおしました。

「アイデアというのは 複数の問題を一気に解決するものである」

http://www.1101.com/iwata/index.html

初っ端に提示されているこの命題なのですが、当時読んだときは全然ピンときませんでした。「そりゃアイディアは問題解決のために出すもので、できることなら複数の問題を解決できた方が素晴らしいに決まってるけれど、それは素晴らしいアイディアというものの定義のような気もするから、何も主張できてはいないんじゃないか」と。けれど今は、この命題を物語作りの話に援用してみると、すっごい分かります。分かるようになりました。
というのも、フィクションというものを空想するようになってから、ずっと神秘的に感じていることがあって。創作していると「パズルのピースがぱたぱたっと填っていく」瞬間というものが、確実に存在するんですね。いままでバラバラに思い描いていた、舞台設定とかキャラクターとか台詞とかそういうものに、一本の道筋が通っていく。あれこれ気に掛けず無秩序に散らかしていた空想のかけらたちが、最初から仕組まれていたように在るべき場所に収まっていく。それが何よりも楽しくて、今は手元の小説を書きつづけています。この感覚を読者に追体験させることができれば、それは名作ミステリー終盤の「謎が一気に回収されていく」快感が演出できるわけで、そんな大技を繰れれば苦労しねーよって話ではあるのですが、まぁ精進したいところです。
さて、何故こんな「填っていく」瞬間が発生するのでしょうか。理由の一つは、そもそも無秩序ではないということ。同じ人間の思考回路から湧いてくる空想パターンなんて限られているので自然と統一感は備わっていますよね、というわけです。これは言うなれば、……創作側の話をしているので当たり前ですが、書く能力についての話です。ではもう一つは何でしょうと問うてみるに、それは読み解く能力なんじゃないかな、と思い当たりました。


例えるならば、そうですね。これまで生きてきて「自分はドラマめいた伏線の回収をしているなぁ」なんて感じたことはありませんか? 私は何度かあります。ひょんなことで知り合った人が、後々かけがえのない役割を果たしてくれているということ。昔なんとなく囓った技術が、ぜんぜん関係なさそうな分野で役立っているということ。
でまぁ、これを運命の一言で片付けるほど私はロマンチックではないので、なにかしらの理が潜んでいるのではないかと考えてみます。そうすると、じつは理由付けの順序が逆なのかもしれないと気付くわけですね。つまり「過去から今に至る巡りが良かったから、人生に運命の流れを読んでしまった」のではなく「人生に運命の流れを読もうとしたから、過去を今に繋げられるのではないか」と。
だから、ある種の乱数に支配されている日常に好ましいドラマを見出して、その筋を補強していくこと。それが「私という人生の物語に血を通わせること」にもなるんじゃないかと、そんなふうに今は思っています。

私の物語体験がソーシャルストリームに押し流されていくということ

ニコニコ静画(電子書籍)が始まったと聞いて、さっそく無料公開中のテルマエ・ロマエIを読んできました。ページ毎にアクションを取らないとコメントが流れないのはニコニコ的に勿体ない気もしましたが、なかなか使いやすいインターフェースでした。ニコニコ動画の傾向から類推すると、ツッコミ待ちなコンテンツにはかなり相性が良いのでしょう。あと動画よりも注釈コメントが映えるので、教科書共有して分かりにくいところをみんなで補足、なんてことができたら便利かもなって思います。
しっかしソーシャル系サービスの広がりはホント目覚ましいですね。おかげで私たちは、他愛ない感想もお手軽に共有できるようになりました。たとえばお気に入りのアニメがあったのなら、twitterで実況してもいいし、ニコニコ動画で茶々入れてもいいし、2chで考察してもいいし、pixivで二次創作してもいいし……。とにかく今は、ネットの至るところにコミュニティがあって、その情報群が様々なルートで流れこんでくるわけです。――そして、そのこと自体は素晴らしいことだと思います。受け手は自分にあった場所で同好の士と盛り上がれるし、作り手は一カ所でブームを起こせればどんどん作品の評判が広まっていく。そういう多様な世界を築きつつあるわけですから。
でも最近なぜか、そういう流れの中で一抹の寂しさを感じるようになりました。というのも、なんだか恐ろしい勢いで作品を消費しては忘れ去ってしまっているような気がして……。そして、それはフィクションだけに限らないのですよね。ずっと心に刺さってるtweetがあるので、引用します。

僕らは関心のあった人物の訃報を即座に受け取ることができるようになり、悲しみを共有し、彼らへの尽きぬ思いを140文字以内にまとめてしまうようになり、そして数時間で忘れられるようにまでなった。

http://twitter.com/raf00/status/96775996241489921

では本当にネットのせいで、そんなふうに私たちは薄情になってしまったのかというと。別にそんなことはなくて、元々持ってるそういう側面が可視化されるようになっただけなのだと思います。だけど、なんでしょうね。ふと立ち止まって過去を振り返った時に、頭の中にあるぼんやりとした記憶と実際に残されていく膨大で冗長なログ、そのギャップを呑みこむことが私にはまだうまくできないようです。大好きだった曲を久々に聴いて「なんでこの感覚を忘れちゃってたかなぁ」と呟く、これはそういう類の喪失感なのだと思います。
しかしまぁ、そう感じるのは仕方ないとして。創作を志す者としては、その感性をどうにかして生かせないものかと考えるべきで、じっさい藻掻いてる最中だったりします。欠落を埋めようとする力というのは時に中々のものだったりしますからね、ファイトですよファイト。

追記

どれほどコンテンツやメディアの興隆が激しかろうとも、らき☆すたなりTMネットワークなりをオワコン認定しているのは、まず第一にその認定者であって、メディア自身じゃあない。本当に大切な記憶は、コンテンツの濁流に流されない。。 http://htn.to/hrZVuE

http://twitter.com/twit_shirokuma/status/134224695745708032

これは私も同感です。だから正確に書くと、可視化されたのは私自身の忘れっぽさであり、短期的な話題が目立つインターフェースに浸っていると世間も等しく忘れ去っているように錯覚しやすい、ということなのかなと考えています。

モーショングラフィックス的な小説を書いてみたい

最近、映像――この記事ではモーショングラフィックス的な意味合い――だとすっと表現できるのに文章でやろうとするとなかなか手こずる物語描写って、結構あるんだなぁと感じています。もともと私は、テキストありきな発想をして物語を創っていると思ってたのですが、少し映像脳になったのかもしれません。
それで、どういう物語描写に難点を感じるかというと。映像だと例えば、背景レイヤーにテキストレイヤーをオーバーレイ、みたいな表現ですね。この場合、情景描写に抽象的な世界観を重ねて一遍に表現したいわけなのですが、文章にしようとするとなかなか難しいなと感じることがあります。
そこらへんの差異を特に感じるのは、映像でいうところのトランジションです。音楽のリズムに同期させて、レイヤーやオブジェなんかを幾分か残しておけば、強引なカット切り替えもわりと繋がったりするものですが、文章だとそうもいかなかったりします。というのは小説の場合、読書リズムもキャラクター描写も、同じ一つのリニアな文章でコントロールしなくてはならない。映像だと、音楽とか構図とか動きとか明確に要素分解できるものを、小説は一緒くたに処理しなくてはならないんですね。
やはり映像は、聴覚と視覚に訴えられるわけですから、瞬間的な感覚に訴えるところは滅法強い。当然、そういう利点がある分だけコスト高なわけですが、小説を書いていると時に羨ましくなることがあります。
もちろん、小説ならではの物語描写というのも沢山ありますし、ようは作品ごとに適切なメディアを選択していければいいよね、という話ではあるのですが。できることなら、選択したメディアの特性を生かしつつ、他ジャンルの利点も取り込めたらなぁ、なんて思う次第です。

『リサイクルプリンセス』体験版

焼肉万歳の『リサイクルプリンセス』体験版をプレイしています。
同サークルの『人間戦車シリーズ』は、無印からLOまで楽しませてもらったファンなので、その後継作品として期待しながら始めてみたのですが、これは素晴らしいですね。……と言っても、まだチュートリアル戦闘二つこなしただけなのですが、「ゲームシステムに血を通わすための過不足ないストーリー」とはこういうものか、と感心しました。これは燃える。


定番のゲーム談義として「ゲームにストーリーは必要か?」というものがあります。この問いに対する私の答は「それぞれの作品が面白ければ何でもいいよ」なので、過度に一般化した主張にはうんざりなのですが、「自分のゲームプレイとは切り離されたドラマを延々と見せられてもなー」という不満を抱くゲームがわりと存在することには同意します。
だからゲームを面白くするための一つのセオリーとして。アクションゲームなら、気持ちよく敵をぶち倒すために憎たらしいストーリー描写をする。パズルゲームなら、素早く解かなければならない危機感を与えるために終末感ただようストーリー描写をする。……といったものがあると思います。
せっかくシステムとストーリーという別々の要素があるのですから、それが綺麗にシンクロした時の破壊力というのは相当なものなのですよね。そういう意味で、『ゼノブレイドヤルダバオト戦の未来視とか、『ブレス オブ ファイア V』ラスボス戦のD-ブレスは、強く印象に残っています。


さて『リサイクルプリンセス』についてです。(まだプレイ時間40分程度なので早とちりしてるところも多分にあるかも、とお断りしつつ……)
ジャンルとしては、わりとスタンダードな視界付きSRPGです。SRPGというのは戦場をデフォルメしたゲームなわけで、当然「冷静に考えると不自然じゃない?」というツッコミどころというものが存在します。まぁそんな野暮に応える必要性も別にないのですが、そこらへん上手くプレイヤーを説得できると没入感というものは増すのかなと思っています。
このゲームでは、「倒した敵が、そのまま戦力増強のための報酬となる」というシステムに対して「ゲノム」という用語を、「指揮ユニットが倒された瞬間に、守るべき国が崩壊する」というシステムに対して「契約」という用語を対応させています。そして、その「ゲノム」と「契約」という概念が存在するファンタジードラマの帰結として、「プリンセスがリサイクルされる」という世界観の説明までを短い第一幕で終わらせてしまっているのですよね。魅力あるキャラクターたちのお話として。
ということで、興味ある方はぜひ体験版DLしてみるといいのではないかと思いますよっ。


リサイクル戦術シミュレーション『リサイクルプリンセス』