雑草わんだほー

That's so wonderful♪

私の物語体験がソーシャルストリームに押し流されていくということ

ニコニコ静画(電子書籍)が始まったと聞いて、さっそく無料公開中のテルマエ・ロマエIを読んできました。ページ毎にアクションを取らないとコメントが流れないのはニコニコ的に勿体ない気もしましたが、なかなか使いやすいインターフェースでした。ニコニコ動画の傾向から類推すると、ツッコミ待ちなコンテンツにはかなり相性が良いのでしょう。あと動画よりも注釈コメントが映えるので、教科書共有して分かりにくいところをみんなで補足、なんてことができたら便利かもなって思います。
しっかしソーシャル系サービスの広がりはホント目覚ましいですね。おかげで私たちは、他愛ない感想もお手軽に共有できるようになりました。たとえばお気に入りのアニメがあったのなら、twitterで実況してもいいし、ニコニコ動画で茶々入れてもいいし、2chで考察してもいいし、pixivで二次創作してもいいし……。とにかく今は、ネットの至るところにコミュニティがあって、その情報群が様々なルートで流れこんでくるわけです。――そして、そのこと自体は素晴らしいことだと思います。受け手は自分にあった場所で同好の士と盛り上がれるし、作り手は一カ所でブームを起こせればどんどん作品の評判が広まっていく。そういう多様な世界を築きつつあるわけですから。
でも最近なぜか、そういう流れの中で一抹の寂しさを感じるようになりました。というのも、なんだか恐ろしい勢いで作品を消費しては忘れ去ってしまっているような気がして……。そして、それはフィクションだけに限らないのですよね。ずっと心に刺さってるtweetがあるので、引用します。

僕らは関心のあった人物の訃報を即座に受け取ることができるようになり、悲しみを共有し、彼らへの尽きぬ思いを140文字以内にまとめてしまうようになり、そして数時間で忘れられるようにまでなった。

http://twitter.com/raf00/status/96775996241489921

では本当にネットのせいで、そんなふうに私たちは薄情になってしまったのかというと。別にそんなことはなくて、元々持ってるそういう側面が可視化されるようになっただけなのだと思います。だけど、なんでしょうね。ふと立ち止まって過去を振り返った時に、頭の中にあるぼんやりとした記憶と実際に残されていく膨大で冗長なログ、そのギャップを呑みこむことが私にはまだうまくできないようです。大好きだった曲を久々に聴いて「なんでこの感覚を忘れちゃってたかなぁ」と呟く、これはそういう類の喪失感なのだと思います。
しかしまぁ、そう感じるのは仕方ないとして。創作を志す者としては、その感性をどうにかして生かせないものかと考えるべきで、じっさい藻掻いてる最中だったりします。欠落を埋めようとする力というのは時に中々のものだったりしますからね、ファイトですよファイト。

追記

どれほどコンテンツやメディアの興隆が激しかろうとも、らき☆すたなりTMネットワークなりをオワコン認定しているのは、まず第一にその認定者であって、メディア自身じゃあない。本当に大切な記憶は、コンテンツの濁流に流されない。。 http://htn.to/hrZVuE

http://twitter.com/twit_shirokuma/status/134224695745708032

これは私も同感です。だから正確に書くと、可視化されたのは私自身の忘れっぽさであり、短期的な話題が目立つインターフェースに浸っていると世間も等しく忘れ去っているように錯覚しやすい、ということなのかなと考えています。